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カイロでテニスとソフトボールやりました=私のスポーツ歴(8) [スポーツ・その他]

「スポーツクラブに20年以上通ってます=私のスポーツ歴(7)」から続きます。

バブルのころ(といっても「これがバブルだ」と実感していたわけではありませんが…)、エジプトのカイロに特派員として赴任しました。

カイロは一年中暑いところだと思っている人も多いと思いますが、緯度で言うと九州よりは南、奄美大島よりも北で、実際は冬もあります。
東京で言うと今(2月下旬〜3月初旬?)くらいの感じでしょうか?
夜の最低気温が摂氏3度〜5度くらいまで下がるので、暖房は必需品ですし、コートやジャンパーも必要です。
ただし、1日の気温差が大きくて15度くらいあるので、最高気温は20度くらいまで上がるのが普通だったような気がします。

もちろん、夏は最高気温40度以上になります。
ただ、湿度が低いので、日陰・室内に入れば大丈夫。
冷房は必需品ではありません。

ここからが本題ですが、そんなカイロでも結構スポーツやってました。

主にテニスとソフトボール。

テニスは主に、ナイル川の中州にあって日本人が多く住むザマレク地区のマリオットホテルのコートでやってました。
相手は主に、同じ日本人の駐在記者。

カイロ赴任前も会社の運動施設にあるコートでやったりしてましたが、年に数回程度でした。
しかし、カイロではほぼ毎週1〜2回やってたと思います。

当時は携帯電話はなく、ポケットベルもエジプトでは普及していなかったので、東京から連絡があると、支局(事務所)からスタッフが呼びに来たりしてました。

事件がなさそうだと、平日の昼間にもやってました。
エジプトはイスラム教の国なので、金曜日と土曜日が休みで、日本とは休日が合わないのですが…。


一方、ソフトボールですが、日本人のチームがあって、そこに所属してました。
チーム名は「ライジング・サン」と言いました。

アメリカ式のやり方で、使うのは革張りの硬いボール。
野球の硬球のボールを大きくしたようなものです。
(このボール、今でも記念に持ってます。)

軟式野球用のグラブは持って行ってましたが、硬球用でないと危ないので、わざわざ日本から取り寄せました。
取り寄せたといえば、揃いのユニフォームやウィンドブレーカーも日本から取り寄せました。
いずれも、今でも持ってます。

金属バットなども日本から取り寄せていたようです。
メンバーに日本航空の支店に人がいたので、運送費は何とかなったのだと思います。

そういえば、当時はまだ南回りの成田—カイロ便が運行してました。
確か最終目的地はギリシャのアテネ。

でも、住んでいる時に湾岸危機(と湾岸戦争)が発生し、運行が見合わせとなり、そのまま今日に至るまで復活していません。

アメリカ人がソフトボールのリーグを作っていて、そこに加盟していました。
日本人チームは1つだけなので、相手は常にアメリカ人チームで、週に1〜2回試合がありました。
海兵隊(マリーンズ)とか、プラット・アンド・ホイットニー(ファルコンズ)などのチームがありました。
チーム名は忘れましたが、「プライス・ウォーターハウス」とか「アモコ」とかもあったような…。

グラウンドはアメリカ人の多く住むマアディ地区にあって、ナイター設備があったので、夏などは平日の夜の試合もありました。

休日のお昼の試合には、メンバーの家族が「出店」を出すことになっていて、ハンバーガーやホットドッグ、チリビーンズなどを販売して、リーグの運営費に充ててたようです。
日本チーム(ライジング・サン)もこの出店をときどき担当してました。

このほか、日本に帰国する知人がクラブを譲ってくれるというので、ゴルフも始める予定だったのですが、湾岸危機発生で仕事が超多忙になり、出張も増えたので、手をつけずじまいでした。
ゴルフを始めるのは、結局、北京に赴任してからになりました。

ちなみに、以前「カイロでバンド活動~私の楽器遍歴(19)~」でも書いたように、カイロではロックバンドを組んで人前で演奏してました。

上記のアメリカ人の多い地区、マアディにあるクラブでライブをやったのも忘れられない思い出です。
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ぬれぴよこ

ナイル川の中州でテニスって、すごいですね~!(笑)
日本人チームの出店ではどんなものを出していたのでしょうか?
海外で生活するって、色々なご苦労もあると思いますし、日本語すらあやしいわたしには夢のまた夢ですが、いろいろな経験ができてとっても楽しそうです。
by ぬれぴよこ (2009-03-06 20:27) 

Lionbass

ぬれぴよこさま
作って売ってたのは、アメリカ人と同じチリビーンズとかホットドッグでした。
たしか、材料がアメリカから輸入したものを使っていたので…。
(エジプトではまともな材料が入手できなかったような気がします。)」

「ナイル川の中洲」は、単にイギリス統治時代からの高級住宅街というだけで、それ以上に意味はなかったと思います。
by Lionbass (2009-03-13 18:55) 

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